2010年04月11日

勝海舟(武田鉄矢)

勝海舟役の武田鉄矢ほえる「龍馬役やりてえ〜」

友人・岩崎弥太郎の目線から見た坂本龍馬像を描く

2010年1月3日スタート『龍馬伝』NHK・午後8時

脚本:福田靖

★★★

龍馬伝NHK・午後8時・第14回「お尋ね者龍馬」4/4

勝海舟(武田鉄矢):幕臣・軍艦奉行。幕府ではなく日本全体による海軍の必要性を説いた。坂本龍馬福山雅治)の人柄を気に入り、神戸に海軍塾を開いたときには、坂本龍馬福山雅治)を塾頭に就かせた

勝海舟 / 勝 安芳(かつ かいしゅう / かつ やすよし)は、江戸時代末期から明治期にかけての幕臣、政治家。位階勲等は正二位勲一等伯爵。(1823から1899)

幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。本名義邦 (よしくに)、維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山から受領の篆刻「海舟書屋」からとったものである。

父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟に当たる。海舟も10代の頃は剣術修行に多くの時間を費やしている。家紋は丸に剣花菱。

山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。明治6年には福澤諭吉らの明六社に参加(勝安芳)。 1887年に哲学館(現:東洋大学)を創設した井上円了と親交があり、多くの寄付をしているため、「哲学館の三恩人」の一人と呼ばれている。

また、専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律増甲乙之科以正澆俗 礼崇升降之制以極頽風」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した

文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町[1]の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した[2]。

曽祖父・銀一は、越後国三島郡長鳥村[3]の貧農の家に生まれた盲人であった。江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得、検校の位を買い、米山検校を名乗った。銀一の子・平蔵は、御家人株を入手して男谷家を興した。男谷家は後に旗本に昇進した。その三男が海舟の父・勝小吉である。小吉は三男であったため、男谷家から勝家に養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年(1575年)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父に当たる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。

幼少時、男谷の親類・阿茶の局の紹介で11代将軍徳川家斉の孫初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が早世したためその望みは消えることとなる。

生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした

剣術は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎の道場、後に精一郎の高弟島田虎之助の道場[4]で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の勧めにより禅も学んだ。

蘭学は、江戸の蘭学者・箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。弘化3年(1846年)には住居も本所から赤坂田町に移る[5]。 この蘭学修行中に辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写した有名な話がある。1部は自分のために、1部は売って金を作るためであった。この時代に蘭学者佐久間象山の知遇を得た[6]。 象山の勧めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた[7]。

嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運を掴むことができた。

その後、長崎の海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。このときの伝習生には矢田堀景蔵、永持亨次郎らがいる。長崎に赴任してから数週間で聴き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす[8]。

この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇をも得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる
本史上稀代の外交手腕と慧眼を備えた政治家・戦略家・実務家と評し心酔するファンがいる一方、理科系の教養に暗く[23]、大言壮語する成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。

坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷隆盛も大久保利通宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」、「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と書いている等、龍馬や西郷のような無私の人物からは高く評価されていたことがわかる。

福沢諭吉の『痩我慢の説』は福沢の持論の立国論が根本にあるが、名指しで勝と榎本武揚を新政府に仕えた「やせ我慢」をせぬものと批判している。何度となく要請されても在野にあった福沢だが、同時に屁理屈や大言壮語、道理に合わない点は老齢となってからも受け付けなかった点もある(10分は水に潜っていられると友人に語った学生の言尻を捉えて洗面器をもってきて顔をつけさせ誤りを認めさせた等)。『福翁自伝』でも勝に批判的なことからウマの合う合わないの点も推察される。

死の3日後、氷川邸に勅使がきて勅語を賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。

幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻賵ヲ齎シテ以テ弔慰セシム

語録
自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。
オレは、(幕府)瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった
やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末等を心配している人たちに)
文明、文明、というが、お前ら自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかぇ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。
敵は多ければ多いほど面白い。(勝自身も、生きている間は無論、亡くなってからも批判者が多いことは、十分に理解していた)
我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。(訪米使節から帰還し、将軍家茂に拝謁した際、幕閣の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われての答弁)
ドウダイ、鉱毒はドウダイ。山を掘ることは旧幕時代からやって居たが、手の先でチョイチョイ掘って居れば毒は流れやしまい。海へ小便したって海の水は小便になるまい。今日は文明だそうだ。元が間違っているんだ。(足尾銅山の公害が明白になってもなお採掘を止めない政府に対して)
今までは人並みなりと思ひしに五尺に足りぬ四尺(子爵)なりとは(当初は子爵の内示だったが、左記の感想を述べ辞退、のちに伯爵を授爵した)
コレデオシマイ (亡くなるときの最後の言葉)

逸話
トラウマ
9歳の頃狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境を彷徨っている(「夢酔独言」)。このとき父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほどであったという[24]。
福澤諭吉との関係
木村摂津守の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福沢諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、勝は伝染病の疑いがあったため自室に篭り切り、艦長らしさを発揮できなかった。福澤はそれをただの船酔いだと考えていたようで、勝を非難する格好の材料としている。
海舟批判書状の『痩我慢の説』への返事
「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ないとして、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分は預かり知らぬことと考えています。)
咸臨丸の実情
和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶ濡れになり、航海中晴れた日は僅かで乾かす間もなかった。そのため艦内に伝染病が流行し、常時14、5人の病人が出た(今でいう悪性のインフルエンザか)。サンフランシスコ到着後には、3人が死亡、現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名が自ら看病のため居残りを申し出た。計9人の世話を艦長の勝海舟はブルックスという現地の貿易商に託し、充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。

勝海舟 - Wikipedia

1. 勝海舟
2. 幕末維新新選組 勝海舟

龍馬伝・話題
龍馬伝・キャスト、登場人物

1. 武田鉄矢 - Wikipedia

2. 武田鉄矢公式サイト
3. Amazon.co.jp: お?い!竜馬 11 霜月 (ビッグコミックス ...

武田鉄矢が勝海舟に扮し福山龍馬とタッグ
2010年4月2日(金)15時30分配信 日刊スポーツ

 タレント武田鉄矢(60)が2日、都内で、勝海舟役で出演するNHK大河ドラマ「龍馬伝」(日曜午後8時)の会見に出席し「わが人生の先生商売に悔いはございません」と語った。民放ドラマの影響で、中学生からは金八先生と呼ばれ、人間ドックに行けば看護師から緒方洪庵先生と呼ばれ、福山龍馬からは勝海舟先生と呼ばれているという。武田は「先生人生の上がりのつもりで取り組んでいる」と意気込みを語った。家族からは「福山龍馬はかっこいいけど、パパは暑苦しい」と言われているという。

「我が人生の“先生”商売に悔いはございません!」勝麟太郎を演じる武田鉄矢が熱い思いを激白!
2010年4月8日(木)12時26分配信 ザテレビジョン

龍馬の人生を変える勝麟太郎役の武田鉄矢 [
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大河ドラマ「龍馬伝」の第16回「勝麟太郎」(4月18日[日]放送)の試写会が、4月2日、NHK放送センターで行われ、勝麟太郎役の武田鉄矢、鈴木圭チーフプロデューサーが出席した。

第16回では、松平春獄(夏八木勲)に勝への紹介状を書いてもらった龍馬(福山雅治)が勝と運命の出会いを果たす。

大の龍馬好きとして知られる武田は「去年1月に『龍馬伝に出ていただけませんか? 龍馬を育ててくれませんか?』言われ、目頭が熱くなりました。18歳のときに好きになり、19歳で高知・桂浜にある銅像の前で『あなたのように生きたい』と正座をして泣いた覚えがあります。“福山龍馬”から『先生』と言われるとうれしい。毎日が感動です」と感激の様子。

「龍馬伝」については「前半は視聴者として見ていたんですが、『あっ、やられた』と舌打ちをしました。(吉田)東洋の描き方、特に坂本家の描き方が抜群!」と絶賛した。

「咸臨丸」に乗った感想を聞かれると、「早朝のロケで、早起きで不機嫌な龍馬(福山)と小船でセットの咸臨丸に乗り込みました。咸臨丸から黒煙が上がって、坂本龍馬、ジョン万次郎(トータス松本)がいる。大変でしたけど、気持ちがいいもんですなぁ」と感慨深げ。

また福山については、「あまり近づいてきませんね。私から龍馬の話を聞くのがうっとうしいらしくて…龍馬の話をしようとすると、『先輩は何年デビューでしたっけ?』など音楽の話に切り替えられます…(笑)」と苦笑いした。

武田は「中学生に会えば『金八先生』と呼ばれ、看護師の方から(「JIN-仁-」(TBS系)で演じた)『洪庵先生』と呼ばれ、龍馬から『勝先生』と呼ばれ、我が人生の“先生”商売に悔いはございません!」と盛り上げて、会見を締めくくった。



posted by NHK大河ドラマ『龍馬伝』(福山雅治) at 06:33| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK大河ドラマ『龍馬伝』キャスト・登場人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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