2010年09月06日

寺田屋事件

寺田屋事件(てらだやじけん)とは、江戸時代末期の京都郊外の伏見(現在の京都市伏見区)の旅館・寺田屋(北緯34度55分48.8秒 東経135度45分34.5秒 / 北緯34.930222度 東経135.759583度 / 34.930222; 135.759583座標: 北緯34度55分48.8秒 東経135度45分34.5秒 / 北緯34.930222度 東経135.759583度 / 34.930222; 135.759583)で発生した事件である。以下の2つの事件が寺田屋事件と呼ばれる。

文久2年(1862年)に発生した薩摩藩尊皇派等の鎮撫事件。
慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。

本龍馬襲撃 [編集]
慶応2年1月23日(1866年3月8日)、「寺田屋遭難」で知られる事件は、京での薩長同盟の会談を斡旋後に薩摩人として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。

龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方百数十人に囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。捕り方に踏み込まれた龍馬らは、拳銃や手槍を用いて防戦し、捕り方数名を殺傷するも、自らも手の親指(左右)を負傷。辛くも脱出して材木屋に隠れる。三吉慎蔵は伏見薩摩藩邸に駆け込み、救援を求めた。薩摩藩邸は川船を出し、救出された龍馬は九死に一生を得ることができた。薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を拒否し続けた。龍馬はその後、伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に移ったが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出した。そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏する。このお龍との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行とされている。それに対して一部には「何らその根拠は無い」などの批判が現代ではある。 この事件に新撰組が関わったとの説もあったが、伏見奉行が「肥後守」であったことから、たまたま同じ官位の京都守護職の松平容保が誤認されて、それにより配下の新撰組の関与が疑われた。

現存の寺田屋と当時の建物との同一性

現在の寺田屋現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。[1]2008年になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。

京都市歴史資料館のウェブサイトにある「いしぶみデータベース」では、「寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し,現在の建物はその後再建したものである。」と紹介している。

大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない。

寺田屋事件 - Wikipedia

2. 伏見寺田屋<寺田屋騒動・薩摩九烈士・坂本龍馬襲撃・薩摩藩暗殺>
3. 寺田屋-坂本竜馬襲撃事件-
4. PetaMap - 寺田屋事件(寺田屋)
5. 寺田屋

龍馬伝・第36回「寺田屋騒動」(9/5)


posted by NHK大河ドラマ『龍馬伝』(福山雅治) at 04:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 龍馬伝・SEASON3(7/18〜) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。